紅梅町・オリオン通りの歴史History

なぜ紅梅町と言うのか?

現在の紅梅町は、甲府城の城廓内、大手門東南の土手小路と呼ばれていたところの一部です。明治6年の廃城令以降に城内外の濠を埋めた新しい街づくりが行われ、横小路に橘町追手小路に錦町、松原小路に常磐町、中小路中殿小路に春日町、土手小路の大部分に桜町などが誕生し現在の甲府中心街が形作られました。
当初、土手小路の桜町から残された地域(現紅梅町地域)は山田町筋新道などと呼ばれていましたが、明治8年まわりにあわせ「華名」として紅梅町と名付けられました。
ちなみに、その当時紅梅町一帯は畑や湿地が多く、住宅数は29戸程でした。

紅梅町の発展

明治36年

明治36年(中央線が開通した年)頃、紅梅町には医者が内科、外科、胃腸科、皮膚科、歯科など併せて9件、料亭にいたっては12件が建ち並び、医者と料亭の町といわれ、夜になると三味線の音が流れるような粋な町並みでした。当時の人は甲府駅から、右記のように通り中心街へ出て、観光や食事、買い物や映画を楽しみました。

大正15年

大正15年東京電力の前から紅梅通りの間に右記のように新道が開設され、商業学校・農林学校・伊藤学院の生徒達の通学路となり、その後一般の人々が繁華街への近道として利用したことで通行量が増え、そこに目をつけた㈱岡島百貨店が若尾邸の常磐町通り角を買収出店し、紅梅町は様変わりし始めました。
しかし、昭和20年8月の甲府大空襲により市街は焼け野原と化し、それは紅梅町も例外ではありませんでした。


昭和初期のオリオン通り 正面の建物は甲府電力
(現東京電力山梨支店)

昭和22年

戦後、焼け野原であるこの地区の東電前通りに面する所有地に集合貸店舗を建て開放しました。ここを原動力に、新道は商店街化に向かい動き出しました。

オリオン通りの誕生

昭和21年、上村文市一氏が料理屋「う月」を買収し、みな与長屋のみちくさ、イトオ靴店・イイジマ楽器、飯島電器の部分を取得して洋画専門の映画館「オリオンパレス」を開館。「風と共に去りぬ」「カサブランカ」などの名作を上映しました。
「オリオンパレス」の用地確保に関わり、その部分の商店は移転されると共に、「みな与」の長屋は下記にように移動しました。
その後、様々な運動、働きかけのもと検事正宿舎が解放され、新道は両面商店街となり、オリオン通り商店会が組織され『オリオン通り』と呼ばれるようになりました。


昭和33年のえびす講まつりの賑わい

昭和36年 オリオン通りにアーケードが出現

昭和36年、「オリオン通りアーケード」は雨除・日除はもちろんのこと、お客様にオリオン通り商店街で快適にお買い物をしてもらいたい。「横のデパート」として利用してもらいたい。という願いを込めて、直射日光を遮り涼しい環境を得るため、屋根部の素材にアルミを使用すると共に、夏の熱気がこもる時期にも考慮し、当時画期的であった開閉屋根を採用し本格的鉄筋アーケードとして立案、設置されました。

また、南北の入口には「オリオン通り」の名をネオンで設置。街のシンボルとして、賑わいづくりの名脇役として、中心街活性化に大いに役立ちました。


昭和36年完成当時のアーケード

昭和38年頃のオリオン通り
昭和38年頃のオリオン通り

昭和42年頃
昭和42年頃

昭和54年頃
昭和54年頃

昭和55年頃のオリオン通り北口の様子 ※甲府商店街連盟
昭和55年頃のオリオン通り北口の様子 ※甲府商店街連盟

昭和55年頃のオリオン通り南口の様子 ※甲府商店街連盟
昭和55年頃のオリオン通り南口の様子 ※甲府商店街連盟

平成9年頃
平成9年頃

昭和48年 ㈱オギノが大増改築
昭和49年 テラド舗装
昭和53年 青年部・防災部結成
昭和57年 オリオン街大火災
昭和63年 ㈱岡島が改装し、紅梅町北通りへ北口を開設
平成5年 パセオ誕生
平成22年 ココリ誕生